ノルウェーを代表する画家エドヴァルド・ムンク (1863-1944) の画業を油彩画約 60 点に版画などあわせた約 100 点を通して振り返る
「ムンク展―共鳴する魂の叫び」 を開催します。 ムンク作品の殿堂、ノルウェーのオスロ市立ムンク美術館所蔵の作品を中心に、初期から晩年までの作品を通して、愛と葛藤に生きた画家の 80 年の生涯をたどる大回顧展です。 |
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ノルウェーの由緒ある家系に生まれたムンクは、病弱だった幼年期に家族の死を体験し、やがて画家になることを目指します。 ヨーロッパ各地で活動しながら世紀末の思想や文学、芸術と出会うなかで、人間の内面に迫る象徴主義の影響を強く受けながら、個人的な体験に根差した独自の画風を確立、ノルウェーの国民的画家としての地位を築きました。 愛、絶望、嫉妬、孤独など人間の感情を強烈なまでに描き出した絵画は、国際的にも広く影響を及ぼし、20 世紀における表現主義の潮流の先駆けにもなりました。 |
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本展覧会には、ムンクの代表作 《叫び》 (1910 年?) が出品されます。 世界一有名な絵画というべきこの 《叫び》 には、技法や素材、制作年の異なるヴァージョンが 4 点、その他に版画作品も現存します。 オスロ市立ムンク美術館所蔵のテンペラ・油彩画の 《叫び》 は、日本では本展覧会で初めて公開される作品です。 さらに、ノルウェーへの思慕が漂う美しい風景画や、肖像画、明るい色彩が印象的な晩年の作品などをあわせて展示し、画家の幅広く豊かな創造活動を紹介します。 |
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会期: 2018 10/27 [土]〜2019 1/20 [日] 展覧会は終了しました。 |
'2018 10_26 「ムンク展 ―共鳴する魂の叫び」 のプレス内覧会と開会式の会場内風景のご紹介です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。 |
「ムンク展―共鳴する魂の叫び」 opening |
「ムンク展―共鳴する魂の叫び」 opening |
「ムンク展 ―共鳴する魂の叫び」 展覧会の概要 ― 「ムンク展」 プレス説明会、他よりの抜粋文章です ― |
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油彩約 60 点、版画・その他約 40 点合わせて 100 点が出品されています。 展覧会は 9 章で構成されており、全体として緩やかに初期から晩年までの作品を観ていただきつつ、章立てはテーマごとに設定している。
ムンク代表作 《叫び》 は、初来日で、油彩と、テンペラによって描かれています。 保存のためムンク美術館でも常に展示しているわけでなく、今回、展覧できるのは貴重な機会となります。
ムンクの作品の特徴として人間の内面を描き続けた画家と言えますが、原点となった 《病める子T》 は繊細な表現となっている。 「マドンナ」「接吻」「吸血鬼」は、ムンクが生涯にわたつて繰り返し描き続けたモティーフで技法やヴァリエーションも見どころとなります。
ムンクは若い時代を放浪して過ごしましたが 40 代半ばノルウェーに戻り、明るい色彩を用いて故郷の風景を描きました。 太陽をはじめとするダイナミックな風景画も見どころです。
ムンクは自画像を数多く描き、自分自身を演出した自画像もあり、絵画を通して生きることを問い続けたムンクの新たな魅力を展覧会を通して発見していただければと思います。
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'2018 10_26 「ムンク展」 プレス内覧会の作品説明会、「ムンク展 ―共鳴する魂の叫び」 図録、「PRESS RELEASE」、チラシなどの抜粋文章です。 |
1 Section ムンクとは誰か |
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左・cat.5 エドヴァルド・ムンク [1863 年-1944 年] 《家壁の前の自画像》 1926 年 油彩、カンヴァス 92.0 x 73.0 cm |
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・cat.5 《家壁の前の自画像》 ムンクはオスロ郊外のエーケリーで 1916〜44 年まで過ごし、その間に相当な数の自画像を制作。 本作は、その間制作された自画像で色彩と感覚の実験では、異なる緑の色調で顔の輪郭が表され、頭部の一部は背景の植物と混ざり合っている。 ・cat.4 《スペイン風邪の後の自画像》 スペイン風邪は第一次世界大戦直後に起こった世界的な流行病で、何百万人もの人々の命を奪った。 彼は、黄土色や青緑、緑や赤の色調を混ぜ合わせることで、見事に気味悪い感染症の雰囲気を生み出している。 ・cat.3 《青空を背にした自画像》 この自画像を描いた 1908 年ムンクは神経衰弱に苦しんだのち、コペンハーゲンの診療所に数ヵ月にわたって入院した彼は、それまでヨーロッパ大陸中を絶え間なく旅し、住まいを変え続けてきた 10 年以上もの放浪生活を終え、祖国ノルウェーに帰国したのである。 |
3 Section 夏の夜―孤独と憂鬱 |
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左・cat.29 《夏の夜、渚のインゲル》 1889 年 油彩、カンヴァス 126.5 x 161.5 cm コーデ(KODE)、ラスムス・メイエル・コレクション、ベルゲン |
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・cat.29 《夏の夜、渚のインゲル》 妹のインゲル・ムンク (1868-1952) を描いた本作は、1890 年代以降のムンクを象徴するテーマの重要な特徴をすでにそなえている。この絵画が 1889 年にクリスチャニアで展示された際、批評家たちから手厳しい反応を受けた。 だが、ノルウェーの画家エーリック・ヴェーレンショル (1855-1938) がすぐに作品を買い上げた。 1924 年には、ノルウェーにおけるムンクの重要なパトロンの一人だった美術コレクターのラスムスメイエル (1858-1916) が、ベルゲンの自邸のコレクションのためにこの作品を購入した。 cat.34 《夏の夜、人魚》 「夏の夜」 というテーマは、ムンクがいくつもの絵画や版画で探究してきたものだ。 どの作品においても、女性が浜辺に配され、月光の柱が象徴的に描かれた、漁村オースゴールストランの神秘的で明るい夏の夜の浜辺や森は、しばしばその舞台となった。 ・cat.32 《渚の青年たち (リンデ・フリーズ)》 浜辺の風景と、孤立し、物憂げな人物からなるこの作品は、〈リンデ・フリーズ〉 と呼ばれるシリーズの 1 点である。 注文主であるドイツの眼科医マックス・リンデ(1862-1940) の名にちなむこの連作は、8 点の絵画からなるもので、ドイツの町リューベックにあるリンデ家の邸宅の子供部屋のために制作された。 だが、リンデ家に絵画が届いたとき、彼らはその出来ばえに満足しなかった。 このシリーズには愛し合い接吻をかわす恋人たちが描かれていて、リンデ夫妻はこうしたイメージが子供たちにふさわしくないと考えた。 |
5 Section 接吻、吸血鬼、マドンナ |
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左・cat.51 《月明かり、浜辺の接吻》 1914 年 油彩、カンヴァス 77.0 x 100.5 cm |
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・cat.51 《月明かり、浜辺の接吻》 男女間の愛は、互いの境界を決壊させ、個人が抱える孤独や疎外感に打ち勝つ手段となる。 ムンクは生涯を通じて独身のままでいた。 彼は、芸術家がその力量を十分に発揮するためには孤独でなければならないと確信していた。 実際のムンクは、友人や支援者、仕事仲間、そしてパトロンたちと広くネットワークを築いていたことが知られている。・cat.62 《マドンナ》 ムンクは聖人の光臨という慣例的な象徴を描くことなく、人物を取り囲む有機的な線とフォルムによってマドンナの聖性を表し、宇宙的、神秘的な雰囲気を生み出した。 聖なる恍惚の瞬間をほのめかす閉じた目と身振りは、受胎の瞬間とみなされ、解説されてきた。 ・cat.63 《マドンナ》 ムンクの 「マドンナ」 は、単に聖書における精神的な意味での母親像であるだけでなく、身体的かつ性的な意味での母親像でもある。 ・cat.64 《マドンナ》 頭と腰の後ろに両腕を回すポーズは、トロイの神官を表した古代ギリシャの彫刻 《ラオコーン》 や、キリスト教の殉教者である聖セバスティアヌスの伝統的な表現を思い起こさせる。 |
7 Section 肖像画 |
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左・cat.83 《ダニエル・ヤコブソン》 1908-09 年 油彩、カンヴァス 204.0 x 111.5 cm |
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・cat.83 《ダニエル・ヤコブソン》 ムンクは、1908 年から 09 年にかけて、数ヵ月にわたりコペンハーゲンで診療所を営んでいたダニエル・ヤコブソン (1861-1939) の治療を受けた。 ヤコブソンから入院中も仕事をするように助言されたことから、ムンクはこの医者の肖像画を何点か描いている。 本作品は、ムンクがヤコブソンに対して感じていたにちがいないある種の疑いをも伝えている。 ムンクは医者の足の片方に、キリスト教の神学では伝統的に悪魔の象徴とされる蹄を描いているからだ。 ・cat.81 《エリーザベト・フェルスター=ニーチェ》 1889 年にニーチェが精神障害を患った後、1900 年に亡くなるまで、妹のエリーザベト・フェルター=ニーチェが兄の世話した。 一方、彼女はニーチェ・アーカイブを創立し、ドイツにおける兄の仕事の受容と解釈の管理を強化した。 彼女は、ニーチェの哲学と国家主義や民族主義の概念を結びつけた中心人物の一人とみなされ、それゆえヨーロッパの精神史における論争の的である。 また彼女は、1933 年以後のドイツでナチス政権と協力関係にあった。・cat.80 《フリードリヒ・ニーチェ》 ドイツの有名な哲学者を描いたこの肖像画は、妹のエリーザベト・フェルスター=ニーチェ (1846-1935) によって注文された。 ムンクは、フリードリヒ・ニーチェ (1844-1900) が亡くなってから 6 年後に、写真をもとに本作品を描いた。 ムンクは、友人であり支援者でもあったエルネスト・ティール宛に書いた手紙で、ムンクは本作品について次のように説明をしている。 「山間の洞窟にこもる 『ツァラトゥストラ』 の作者として彼を描きました」。 |
オスロ市立ムンク美術館 |
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(上) オスロ市立ムンク美術館 現在 |
cat. 1 エドヴァルド・ムンク 《自画像》 1895 年 リトグラフ 46.0 x 31.5 cm |
オスロ市立ムンク美術館 について ―展覧会パネルより抜粋文章― |
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北欧にあるノルウェー王国の首都オスロ市、東部トイエン地区に位置するムンク美術館は、ムンク生誕 100 年にあたる 1963 年に開館しました。 そのコレクションは、ムンクによる油彩画 1,150 点、7,700 点の水彩画および素描類 13 点の彫刻、700 種 18,000 点近くの版画類からなります。 ムンクが生涯に残した作品の半数以上を収蔵する同館は、作品のほかにも手紙や写真、手記、蔵書や身の回りの愛用品などを含む、充実したコレクションを誇ります。 こうした所蔵品の多くは、ムンクと妹インゲルの遺志によって、オスロ市に寄贈されたものです。 ムンク美術館は開館から半世紀以上経ち、今日では世界中から多くの来館者を迎えています。 さらなる展示の拡充が望まれることから、美術館を新築する計画が持ち上がりました。 新しいムンク美術館は、2020 年の開館を目指し、海に面したビョルヴァイカの地で建設が進められています。 |
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・cat.1 エドヴァルド・ムンク 《自画像》 このムンクの自画像は、黒地を背景に浮かび上がる頭部と腕によって表わされている。 骸骨とかした腕は、おそらくは 「メメントモリ」 を象徴的に表す伝統に従うもので、画家の死すべき運命を思わせる。
「メメント・モリ」 とはラテン語の警句で、「死を忘れるなかれ」 と訳される。 頭蓋骨や骨、そして腐った果物は、17 世紀のバロック芸術において、この言葉を象徴するモティーフとしてとくに好んで用いられた。
こうした解釈は、リトグラフの上部署名と制作年が墓碑銘のように表わされていることからも導き出される。 この自画像を制作したとき、ムンクはまだ 30
代初めにすぎなかったが、それでも 「死」 のテーマはすでに彼の作品にたびたび描かれていた。 |
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【本展監修者】 ヨン=オーヴェ・スタイハウグ (オスロ市立ムンク美術館、展覧会・コレクション部長) |
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ムンクの一見未完成に見える絵画は、初期の頃にはノルウェーやドイツの批評家たちの批判の的となった。 ノルウェー国外では、1892 年のベルリンでのスキャンダルな成功とともにムンクの名は広まりつつあった。 ベルリンの芸術家協会での彼の個展は、保守的な会員やメディアからの圧力により 1 週間で閉鎖に追い込まれてしまった。 だがこの事件のおかげで、ムンクはドイツをはじめ他のヨーロッパ諸国で画家として頭角を現していく。 そして 20 年後の 1912 年には、ケルンで開催された歴史的な分離派展で、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーガン、フィンセント・ファン・ゴッホといった主導的なモダニストに並ぶ新しい芸術の担い手として紹介され、一室が与えられた。 ムンクは最も先進的なモダニズムの芸術家の一人と見なされたのである。 同時代の若きドイツ表現主義者、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、エミール・ノルデたちにとって、ムンクは手本となった。 そして 1927 年にベルリン国立美術館で開催された画家の大回顧展によって、美術史におけるムンクの位置づけはより確固たるものとなった。 |
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ムンクが死去した 1944 年、ほとんどすべての作品がオスロ市に寄贈された。 何年にも及ぶ準備を経て、1963 年、同市にムンク美術館が開館した。 同美術館は 50 年にわたり、ムンクの展覧会を企画し、作品を保管し、世に広めてきた。 その仕事は各国での数多くの国際展の開催にまで及び、ムンク作品の評価をますます高めることに貢献している。 現在でもなお、ムンクの芸術は世界中からの関心を集めている。 日本でもたくさんの展覧会が開催されてきたが、本展のように、ムンクの初期から晩年までの作品を網羅する展覧会が最後に開催されたのは、 20 年前にまで遡る。 |
お問合せ:03-5777-8600 (ハローダイヤル) |
参考資料:プレス説明会、「ムンク展」図録、PRESS RELEASE & 報道資料 、他。 |
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